------- 言語(学)の楽しさ とドイツ語の学び方 -------
この講座では他の高等動物との比較に於いて最も顕著な特徴である人間の言語の性質を知って頂くと同時に、異なる言語地域に囲まれたドイツに在住しておられる皆さんに言語を学ぶ楽しさを知って頂き、その中でどうやって効果的にドイツ語を学ぶか、という切実な問題にも迫って行きたいと思います。私は既に日本にいた時から言語に関心を持っていましたが、植村直己、小西政継等とのエベレスト直登遠征の翌年、脱サラ後の新しい人生を模索すべくネパールからパキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコ、ブルガリア、当時のユーゴスラビア、西ドイツを経てデンマークに至る7500キロの旅路の中で、アジアの幾つかの言語とヨーロッパに入ってから出会った諸言語との類似性に対する脈々たる好奇心の高揚が後にケルン大学で言語学を始めた発端になっています。本講座の内容,或いはその他、言語に関するご質問がありましたら何なりとお申し出下さい。私の分かる範囲でお答えさせて頂きます。
著者略歴 : 佐藤之敏、
一橋大学商学部卒(専門 : 金融論)、ケルン大学言語学部卒(専門:インドゲルマン語比較言語学/一般言語学)、デュッセルドルフ大学言語学科講師、ケルン日本文化会館日本語講座担当、各種日本企業ないしメッセに於ける日本経済と企業文化に関する講演, JIF (Japan Interface für Sprache, Kultur & Wirtschaft 言語と文化と経済に関するジャパン・インターフェイス)主宰。その他スポーツ活動 : 北パキスタン7000米峰三座初登攀に次いで世界初のエベレスト南東壁試登
目次
Ⅰ 言語(学)の楽しさ
第一回目 : ウムラウトはドイツ語だけでなく英語にも日本語にもある !!
第二回目 : 口蓋化現象 -------- 世界の言語で最も広範に見られる子音変化現象
第三回目 : 日本の英語教育で動詞の「原形」とか「不定詞」と呼んでいる表現は誤り。
第四回目 : ドイツ語の疑問文とは全く違う英語のdo/does疑問文の秘密
第五回目 : 語順の問題
第六回目 : 英独単語の規則的相違はどこから来るのか : ゲルマン語音韻推移の問題
第七回目 : インドゲルマン語族とは何か
第八回目 : 言語はどのように変化するか town /Zaun (音と意味の変化)
第九回目 : 日本語の系統問題 -----日本語 / 人はどこから来たか
Ⅱ ドイツ語の学び方
第一回目 : ウムラウトはドイツ語だけでなく英語にも日本語にもある !!
日本人だけでなく殆どのドイツ人もウムラウトはドイツ語にだけあり英語には無いと思っています。理由は、英語にはドイツ語のウムラウト記号(ä,ö,üの二つの点)がないから、と単純に考えているのです。(英独両方を知っている)日本人の大半も恐らく同様の理由でそう思っているようです。JIF言語講座第一回目はこの問題から入っていきましょう。というのは、先ず第一に、これによって平均的ドイツ人の大半が知らないUmlautという現象の意味だけでなく、もっと大事なのは、この現象が人間の言語の或る特徴を顕著に表しているからでもあります。
先ずドイツ語のウムラウトの次の例を見て下さい。
Ball/Bälle, Mann/Männer, alt/älter, groß/größer, Mann/männlich, Köln < colonia
それが名詞の複数(Bälle, Männer)であろうと、形容詞の比較級(älter, größer)であろうと、形容詞を作る接尾語(-lich)が後続しようと(Männlich),或いはまた外来語(ラテン語colonia)から派生した地名( Köln)であろうと、必ず母音のeまたはiが後続しています。そして複数の語尾(e /er)と比較級の語尾(-er)は古い時代は –i/-irでした。ということは取りも直さず,母音のiに秘密がありそうですね。というよりか、母音iと他の母音a,o,u との違いかも知れません。ここで日本語の次の現象を見てみましょう。
痛い itai/itee, 辛い karai/ karee, 甘いamai/ amee
さあ、これはどういうことでしょうか。母音の中でも特にaと iは口の開け方がかなり違いますね。aは口を一番大きく開け且つ口の一番奥で発音、逆に iは口を一番小さく開けて口の一番先端で発音します。ここなんです。人は話す時、決して一つ一つの音節/音を考えながら発声するのでなく、先の音節/音まで咄嗟に見越して発話するのです。だからこそ、母音aを発声しようとする時殆ど同時にその後に続く i の発音の為の口の形をする為に、丁度その中間の音、即ちeが出てきてしまうのですね。次は熊本弁の例です。
食べなっせ (食べなさい)
Tabenasse tabenasai
私見ではこれも上記の例と同様 –aiが eに変化した例と見られると思います。
重要なのは、こうした先を見越した調音による単語・表現の変化形の発生の問題です。日本語の形容詞が変化するのは活用形(早い/早く/早ければetc.)だけとは限りません。次の例を見て下さい。
早いです / お早うございます お目出たいです お目出とうございます
hayai desu / ohayou gozaimasu omedetai desu / omedetou gozaimasu
ここでは後続表現gozaimasu の 母音oが直前の母音に影響を及ぼしていることは明白です。その意味では勿論これもウムラウト(母音変換)です。
さて、それでは英語はどうでしょうか。ここでは幾分端折って数例を挙げるのにとどめます。私達は中学英語でfoot,
tooth, goose, man といった名詞が幾分変わった複数形を取ることを習いましたね。ここでも古くは存在していた複数記号としての i によってo,a がウムラウト化して夫々eに変わり、その後、ウムラウト化したeが複数記号と感じ取られるようになってからiが消滅したと考えられます。即ち次のような変化プロセスが仮定されます。
foot > *footi > *feeti> feet / tooth > *toothi > *teethi > teeth / goose > *goosei > *geesei > geese / man > *mani > *meni / men
即ち文献に書き残された形としては残っていないが*footiといった複数形があった筈とされています(単語に先行する星印*は歴史的比較言語学に於いて、現実には記録文書には残っていないが理論上存在した筈と考えられる単語であることを表す記号です)。
ここで興味深いのは、形容詞old の比較級・最上級が二セットあるという事実です。
Old / older / oldest, old/ elder / eldest
ドイツ語 alt / älter / ältest
そして元々は後者がウムラウトを伴った比較級・最上級のオリジナルであったことはドイツ語のそれとくらべれば一目瞭然で、現代英語ではこの二セットの意味機能分担を図った訳です。
The Horyuuji- temple is much older than Enkakuji / He is my elder brother.
第二回目 : 口蓋化現象 -------- 世界の言語で最も広範に見られる子音変化現象
Umlaut は母音の領域での現象(詳しくは一回目講座参照)ですが、前後の母音の影響で子音の発音に変化が生じることもあります。この現象の最も顕著なのがイタリア語です。イタリア語ではCないしgで書かれている音/音節はもともとカ行ないしガ行でした。例えば
càmera (部屋)、gamba(脚)、cóntro(逆らって), gòndola(ゴンドラ)
カメラ ガンバ コントゥロ ゴンドーラ
ところが直後に母音のi乃至eが続くと
cento(百) 、cinque(五)、gènte (人々)、
チェント チンクェ ジェンテ
というようにチ行乃至ジ行になってしまいます。gigante(巨人)はこの現象を一語内に顕著
ジガンテ
に表しています。
母音i /eは咽喉内の天井の前部(指で触ると分かりますが固い部分で硬口蓋、天井の後部の柔らかい部分を軟口蓋と呼んでいますが)で発音されるので本来は硬口蓋母音と呼ぶべきなのですが言語学では通常単に口蓋母音(palatal vowel)と呼び、この母音i/eが前後の音に影響を及ぼす現象そのものも簡略して一般に口蓋化現象(palatalization)と呼んでいます。その意味ではウムラウトも基本的には母音領域での口蓋化現象と呼んでもいい訳ですが、言語学(その中でも特に音声学)では一般に上に見たイタリア語のc /gに顕著に見られるような子音への影響を口蓋化現象と呼んでおり、これは世界の無数の言語に見られる言語現象です。英語のgentle(man)の ge-は既にラテン語の直系であるイタリア語ないしフランス語で既に口蓋化していたものが英語に入った訳ですが、英語特有の口蓋化現象も無数にあり、これが同じ西ゲルマン語である英語とドイツ語の間の単語レベルでの違いに繋がっている例が多く見られます。例えば
ドイツ語 gestern genug Tag Weg gelb gleich Regen
英語 yester (day) enough day way yellow like rain
ただ、ローマ字表記は音声記号ではありませんので、gが、どうした経過を経てyまたは消滅したかを文献上追跡することは出来ません。ただイタリア語に見られるge「ゲ」がジェに変化している実例からしても、ge 「ゲ」が ge「ジェ」 に、更に(yellow
に見られるように)「イェ 」に変わり, 時にはi ( rain), 時には記載上も完全に消滅(like),という過程が考えられます。これについては英語rainの次の文献上の痕跡が
参考になります。
現代英語 中世英語 古代英語
rain < reyn < regn
Punkt / point (punctual), Regel / rule (regular)
英語に於けるこうした口蓋化現象で最も顕著なのはドイツ語の過去分詞に残っている接頭語のge-が英語では完璧に消滅してしまっていることです。ここでは一つだけdoの過去分詞の例を挙げます。
ドイツ語 getan
古代英語 gedon
現代英語 done
それでは今度は日本語の口蓋化現象を見てみましょう。
食べてしまう、 食べちまう、 食べちゃう
Tabete simau > tabechimau > tabechau
ローマ字表記を見れば、先ずtabeteのte が後続するsi によってchiになっている訳で口蓋化現象が起こっているのは一目瞭然です。ただ、tabechimauから tabechauへの変化は最早口蓋化とは言えず、もっと一般的な連声(れんじょう,古代インド文法で言うところのsandhi)現象です。サンディ現象とは一つの語内、或いは語と語の間で、調音器官の連鎖によって音が変化する現象で、その意味ではウムラウトも口蓋化現象も全てサンディー現象の範疇に入ります。例えば、英語のdo notが don´tになっているのも日本語のnani desu ka, nani no hanashi desuka がnandesuka , nanno hanasidesukaに変化しているのも典型的なサンディー現象です。サンディーは殆どの場合、音声学的に説明可能な現象です。日本語に於いてnani のi が消えてnan になっているのも、後に続く語の語頭子音がt/d/nに限る、ということに関係しているようです。即ち、nani の二つ目の nとその直後に続くt/d/nが共に歯音である為、それが互いに引っ張り合い、その間にある(口の開きが一番)小さい母音iをはじき出すことによるサンディー現象と考えられます。
それでは英語の不定冠詞aが 母音語頭の名詞の前でanになっているのもサンディー現象でしょうか。ここには全く違う背景があります。日本の英語教育だけでなく、
アメリカやイギリスでも初等教育に於ける国語としての英語教育では、名詞の前の不定冠詞aは母音で始まる名詞の前では、間にnが挿入されてanになると教えられています。ただ、歴史的事実は逆であることは英語と親戚関係にある大半のヨーロッパ言語の状況を見れば明らかです。即ち「一つ」を表す数詞は全てnを伴っています(独ein、仏un/une、伊un/uno)。それでは古代英語の状況を見てみましょう。
Án God ys gód.
“ A god (god alone) is good”
Dat waes án cyning„
“That was a singular king“
Án mann
“ a man”
ということは、英語にあっても不定冠詞( =「一つ」を表す数詞)には元々nがあった訳です。それでは英語の初等教育で教えている、母音語頭の名詞の前の不定冠詞にはnが挿入される、という説明は間違いでしょうか。いいえ、必ずしもそうとは言えないのです。言語学で最も重要なことの一つに、共時的記述(Synchronie)と通時的記述(Diachronie)の区別があります。通時的記述というのは別名歴史的記述と言い直してもいいかも知れません。要するに上記の英語の不定冠詞a / anの違いの説明(記述)にしても、a は元々anであり、子音語頭の名詞の前ではnが消滅、母音語頭の前に置かれる時のみnが残されていると説明すれば、これは英語の過去の歴史を考慮した記述であり、もし、現代英語の現実として子音語頭の名詞の方が母音語頭の名詞より圧倒的に多い訳ですから英語ネイティブスピーカーの意識の中でも不定冠詞はaという認識がある訳です。正にその意味で、母音語頭の名詞の前の時だけ、nが挿入され発音がし易くなっている、という記述も間違いでなく、歴史的な背景を排除して純粋にその言語の現時点の在り方だけに注目して記述する言語学アプローチを共時的記述と称しています。この区別は一般言語学の創始者とも言えるスイス人言語学者ソスュール(Ferdinand de Saussure)が提唱した理論です。この区別はこれからもJIF言語学講座の中で折に触れて扱われることですので、簡単に導入説明させて頂きました。
第三回目 : 日本の英語教育で動詞の「原形」とか「不定詞」と言われている表現は誤り。
JIF言語学講座はこれまで二回に亘り、言語の音に関すること(音韻学Phonologie)
を扱ってきましたが今回は語順(統語学Syntax)そして品詞・語形(形態論Morphologie)
の問題に入って行きます。勿論、時には論議の繋がりに従い音に関することも交じってくることは言うまでもありません。人間の言語は、こうした全てのことが互いに絡み合いながら出来上がっているからです。このことを(フランス語のネィティブスピーカーであった)前述のソスュールはTout se tient 「全ては互いに関係している」の一語でズバリと言い当てています。
日本の英語教育の中で「動詞の原形及び不定詞」と言われていることは完全に誤りで、英語文法,延いてはドイツ語文法の理解の妨げにもなっています。先ず次の英独両語の文をご覧下さい。
Ich habe keine Zeit, Tennis zu spielen.
I have no time, to play tennis.
Spielenとその目的語 Tennis /tennisの語順は丁度逆になっていますが、spielenの前にzu/to が前置されていることは共通ですね。この英語の例からドイツ語初心者は
英語文 To play tennis is my hobby.
の対応ドイツ文としてどうしても
Tennis zu spielen ist mein hobby.
とやってしまいがちですが、正しくは
Tennis spielen ist mein hobby.
です。
共に西ゲルマン語族に属している英独両言語が単語のレベルだけでなく文法的にも似ていることは驚くに当たりません。にも関わらず意外なところで違いがあります。それでは次の英文ペアを見ましょう。
He plays tennis / He can play tennis
日本の英語教育では、二つ目の文では助動詞canが先行するから三人称単数のSが取れて原形playになっている、と説明していますね。英語圏の国語としての英語教育或いは英語文法(例えばA University Grammar of English, )では、これを不定詞(正確にはbare infinitive裸の不定詞)、toが先行している不定詞をto 不定詞(to-infinitive)と定義しています。そして英語でもドイツ語でも基本的に不定詞(上の例ではplay/spielen)ないし不定詞句(play tennis /Tennis spielen)は元々それ自体「テニスをすること」といったような名詞的性格を持っています。その性格をそっくりそのまま保ったのがドイツ語に於ける上記のTennis spielen ist mein Hobbyです。ただ英独両言語とも、不定詞句が主文に続く従属文のような役割を果たす場合は言ってみれば主文と不定詞句を接続する為の機能を持ったto/ zuが先行されるようになった訳です(丁度主文と従属文を接続する為に英語の場合thatが従属文を先行するように)。英語では、後にそれが一人歩きし始めてTo play tennis is my hobby といった使い方が一般的になった訳です。ということは英独 両語に於ける
He can play tennis / Er kann Tennis spielen
も基本的にはplay tennis / Tennis spielen が名詞句「テニスをすること」として助動詞can /kannの目的語となっている訳です(英独両言語のcan/kannが元々動詞であったことは昨年6月の日本クラブでの講演でも既にお話ししたことですが、本講座でも改めて後にお話しする機会があると思います)。英独文法(特に統語論)の大きな違いと考えられている英語のdo /does-疑問文の問題も不定詞句(infinitive phrase)の名詞的性格を理解することにより明らかになります。これがJIF言語講座第四回目のテーマです。
第四回目 : ドイツ語の疑問文とは全く違う英語のdo/does疑問文の秘密
インドゲルマン語の共通子孫言語としてのヨーロッパ諸語の疑問文は基本的に主語と動詞
の倒置によって作られていますが、ドイツ語と近い親戚関係にある英語では、次の二文に見られるように。
You play tennis > Do you play tennis ?
He plays tennis > Does he play tennis ?
通常の肯定文の文頭にdo / doesが疑問文を作るための助動詞として付加されて作られている、と思われますよね。と現代のアメリカ人もイギリス人も感じているようです。ただ、英語の疑問文は実はドイツ語と全く同様、主語(S)と動詞(V)の倒置から作られているのです。
要するにdoもdoesも元より「する」を意味する動詞(V)であり、言ってみれば,名詞的性格を持った不定詞句「テニスをすること」が目的語(O)として後続、疑問文ではドイツ語と全く同様、主語(S)と動詞 (V)が倒置しているだけなのです。
You do play tennis. / He does play tennis.
S V O S V O
> Do you play tennis ? / Does he play tennis ?
V S O V S O
ここで興味深いのは現代ドイツ語でも、余り日常的でない事柄につき人によって何かの調子に英語のdo に対応するtunを使って
Machen Sie wirklich selber Sushi ? 「あなた本当に自分で寿司なんか作るの?」の代わりに
Tun Sie wirklich Sushi machen ? 「あなた本当に自分で寿司を作ることなんてするの?」
V S O
といった疑問文を発っすることはかなり多いのです。
ただ、これは英語とドイツ語の歴史的親戚関係も考慮に入れた通時的記述(JIF言語学講座第二回参照)であり、、疑問文ないし否定文を作るにはその為に必要な助動詞としてのDo /Doesを付け加える(という言語感覚が現代米英ネイティブスピーカーにはある)というのが共時的記述です。ただ、この問題では、現代英語でもごく日常的に発話されている肯定文の強調として挿入するdoの使い方に注目する必要があります。
I do make sushi by myself / He does make sushi by himself.
S V O S V O
第五回目 : 語順の問題
私達は初めて英語を習った時、一番初めに気が付いたのは語順が日本語と違うということでしたね。日本語でしたら「私はリンゴを食べる」と言うところを英語では「私は食べるリンゴを食べる」と言うんだな、ということに気が付きました。そしていつの間にか英語は主語-動詞-目的語 , 即ちSVOなんだ、ということにも慣れてしまいました。その意味でドイツ語の語順にも違和感がありませんでした。英語以外にフランス語やイタリア語といったヨーロッパの他の言語を習った人も、語順については基本的に英語の語順SVOと変わらない、という印象を得ます。そして英語を始めヨーロッパの言語が世界を支配している、といった印象からも、ともすれば、SVOが世界の言語の語順の主流であるような錯覚に捕らわれがちですが、現実は世界中の言語(一説ではほぼ六千)の内、ほぼ三分の一がSVO(ヨーロッパ諸語、中国語),更に約三分の一がSOV(日本語、韓国語、インド語、トルコ語等)、残りの三分の一がVSO(スコットランド語)ないしVOS(フィリップンのタガログ語)となっており、言語をタイプ別に分類する言語類型学(language typology, Sprachtypologie)ではSVO言語/SOV言語/VOS言語といった風に分類しています。ただ、ドイツ語を学ぶ私達にとって興味深いのは、ドイツ語はSVO言語とSOV言語の両方の特徴を兼ね備えており、言語類型学の中では特殊な地位を占めているという事実です。即ち、ドイツ語は主文ではSVO,従属文ではSVOだからです。手短な例を挙げます。
英語 He drinks beer. I think that he drinks beer.
S V O S V O
ドイツ語 Er trinkt Bier. Ich glaube, dass er Bier trinkt.
S V O S O V
日本語 彼はビールを飲む。私は、彼はビールを飲む、と思います。
S O V S O V
そしてSVO言語は殆ど前置詞、SOV言語は後置詞、VSO/VOS言語は殆ど前置詞という具合に語順と前置詞/後置詞の違いには大きな関連性が見られます。
Ⅱドイツ語の学び方
本論に入る前に先ず、外国語の学習について私達が誰でも持っている疑問について考えてみましょう。取り敢えず疑問点を箇条書きにしてみます。
① 私達日本人は外国語に弱いか。
② 第一外国語としての英語さえ未だたどたどしいのに第二外国語としてドイツ語を
始めたら、混乱して英語そのものについても良くないのではないか。
③ ドイツ語は英語より難しいか。
④ にも関わらずドイツ語をマスターすることなど可能か。
⑤ ドイツ語の学習には何が一番大事か。
さあ、それではこの六つの疑問について考えてみましょう。
① 先ずはっきり断言出来るのは、私達日本人が外国語に弱いということは絶対にありません。それじゃあ、第一外国語の英語さえまともに話せる日本人が未だに圧倒的に少ない、というのはどうして、という疑問の声が聞こえてきます。これについては、ありふれた議論かも知れませんが、矢張り、日本が島国であるということが幾つかの面で決定的に影響していますね。先ず皆さん、誰しもが「私、ドイツに来てから未だ一週間、しかも誰が見ても外国人ということが明らかなのに、どうしてドイツ人は道端でこの私に道を聞くのかしら」と思いますよね。これなんです、決定的なのは。日本は世界の冠たる先端技術工業国家、東京は世界有数の近代的大都市。にも関わらず、矢張り私達日本人に取って日常生活で外国人と接する機会は全く稀なんです。それに対して西ヨーロッパ、アメリカ諸国では自国民以外の人間との接触はごく日常茶飯事。この単純な事実が私達日本人、そして日本社会に果たしているインパクトは計り知れません。日本社会の歴史的背景と絡む私達の心理の中にずっしり浸透している羞恥心の強さ(勿論このことが持っている日本社会の秩序安定という側面も忘れることは出来ません)もその最たるものでしょう。そういう私達の目には時に、ドイツ人はどうしてこう恥知らずなのか、と感じられることさえ、ままあると思います。この島国である、という一見単純な背景がもたらす、外国人と接する機会が圧倒的に少ない、そして私達には高度な羞恥心がある、という事実は未だに外国語を話すことに決定的な影響を与えていますが、それに加えて、そういう環境の中での学校英語教育の問題も無視出来ません。ドイツ語だったら
Wer weiß ? 「誰が分かる / 知っている?」
に対して日本語と同様
Ich ! 「私 / 僕 !」
でいいところを英語では (フランス語の影響で)
Who knows ? Me !
ですよね。こんなことはドイツでの英語の授業ではレッスン英語として始めから
授業中に使われていますが、日本での学校英語では英語の先生そのものも、こうしたことに慣れていない、というのが現状です。しかしそれはしょうがないのです。それではどうしたらいいか。これについては③、④、特に⑤でお答えします。
② 英語が未だ完璧でない状態でドイツ語を習ったら、英語そのものが混乱、挙句の果ては折角ある程度は喋れた英語がダメになるのじゃないか、という心配は一見すると、論理的かと思ってしまいます。勿論、両言語の単語を混同するとか発音上、英語にドイツ語的な発音が混じってしまうことも起きます。しかしこれは全く些細なことで最終的にはドイツの日常生活の中である程度ドイツを使えるようになった人は逆に英語に於いても飛躍的な進歩が見られます。これは学校の授業以外のところで子供にドイツ語を習わせるか英語を習わせるか、悩んでいるご両親に特に申し上げておきます。
私達日本人は学校英語・受験英語の影響もあり、先ず頭の中で日本語から一つ一つずつの日本語の対応英単語を考えてから英文を作り発話していますね。だからこそ、一つでも対応英単語が見つからなかったら,或いは知らなかったら、それだけで既に発話しなくなってしまう傾向がありますが、これダメなんです。いや、残念なんです。というのは、人間の言語コミュニケーションというのは、10の単語から出来ている文の一つ抜けていてもかなり相手に分かってもらえるもので、そういった際、英語文の中に、対応英単語の箇所に知っているドイツ語を入れてしまっても対応日本語単語を入れてしまっても、殆どの場合、相手は理解してくれるのです。こうした言語コミュニケーションの状況を言語学ではcode switching と呼んでいますが、多くの言語が飛び交っている社会・地域の人達にとっては全く当たり前の通話手段です。こうしたことに慣れる、目の前に自分達とは違う顔をした人が立っていても、少しぐらい間違っても平気でドイツをしゃべるようになってきたら、これはもうしめたもので、英語も一段と上達するのです。勿論英語とドイツ語の共通の語彙、文法の類似性により、それまで英語でも言えてなかったことが言えるようになる、という面もあります。これについては次の③をご参照下さい。
③ 英独両言語がインドゲルマン語族という親戚関係(これについてはJIF言語学講座「言語(学)の面白さ」の該当箇所をご参考下さい)の中でも西ゲルマン語に属する、ということから単語的にも文法的にも似ている、だから楽だ、という面がある一方、英語がその歴史の中でどんどん単純化して行ったのに対してドイツ語は古代インド語、ラテン語、古代ギリシャ語といった古いインドゲルマン語の文法的特徴を未だに保存している為に英語より複雑な文法構造を持ち、それがドイツ語の学習を困難にしている、という面もあります。即ち名詞の領域では、三つの性(男性・女性・中性)と格変化がある(古代英語では同様)、動詞の形が主語(一人称、二人称、三人称、単数・複数)に従って全部変わる(現代英語では三人称単数現在だけにSがつく。因みにデンマーク語ではそれもなし)といった具合に、その限りに於いては、英語よりかなりしんどいですね。ただ困難な要素だけを見てため息を付かないで、英語を知っているから楽な部分、ドイツ語をやったから英語の語彙もふえる、といったプラス面も見るようにしましょう。
両言語も西ゲルマン語ということから、多くの単語で英語に於けるdがドイツ語ではtに、pがfに対応しているから英語のdeapがドイツ語の tief になっている(だから Tiefgarage地下駐車場)といった例は数えきれない程あり、これなどはドイツ語の単語を記憶装置に留める為には有効です。或いは構文的にも
I have a lot to do.
Ich have viel zu tun.
のようなペアのように全く並行しているか、次の例のように
I have no time to make Gyooza.
Ich habe keine Zeit, gyooza zu machen.
語順が一部逆になっているだけで殆ど同じ構文を形作っているケースも沢山あるのです。
④ ドイツ語のこうした古代言語的な文法上の複雑さにも関わらずドイツ語をマスターすることは可能か、という質問に対しては Jain ヤイン(「yes ともnoとも言える」の意味で現代ドイツ人がja とneinを合成して作った造語)としか言えません。これは、どのレベル(本当に複雑な仕事上のこと、政治経済の専門分野に関わることetc.)までを期待しているかによります。それはでも英語についても同じですよね。ただ、日常的なレベルについてでしたら、学習達成度は多分に次の⑤に関わってきます。
⑤ さて、いよいよ肝心かなめのテーマに到達しました。何が最も効果的なドイツ語学習法でしょうか。一番基本的なのは、教師の指示に従ってただ単に教科書に載っていることをページを追って習って行く、という受動的な勉強は最も非効果的
であるという認識です。これでは日本で教室の中で、或いはテレビドイツ語学習と全く変わりませんね。これでは、ドイツ語の現地で実際に生活をしている、という決定的に有利な要素が全く生かされていないことになります。
それでは教科書に依存した学習が何故非効果的なのでしょうか。この背景にあるのは、出版会社も教科書の編集者も必ずしも外国人学習者の切実な要求を眼中に編集・出版している訳ではない、という事実です。勿論編集者の中には学校でドイツ人の生徒に国語としてドイツ語を教える経験はあっても、必ずしも自ら長期に亘って外国に生活した経験があるという訳ではありません。だからこそ、日常茶飯事の状況として、「済みません、この椅子使っていいですか」などといった、既にドイツ到着第一日目にも使わざる を得ないbenutzen「使う」などという動詞が三冊目に初めて出て来る、といったことが頻繁に起こるのです。それから、出版社側には、大事な文法項目・構文を外国人学習者側の必要性に応じて迅速に導入せずに、成る可く多くの部冊に振り分けることによって、多くの部冊を買わせる、という純粋 に商業的観点からの作戦がある、ということも教科書一点張りの学習の大きな欠点です。ここでは、一つだけ例を挙げるに留めます。Hueber 出版社のSchritteシ
リーズでは、第一冊目の5課に既に動詞anfangen「始まる、始める」、その直ぐ次の頁に Ich habe keine Zeit「私は時間が無い」という文が導入されています。教科書に沿って、試験範囲に出てくる単語、構文をそっくりそのまま覚えれば点が取れる、という日本の学校英語の勉強と違い、大人としてその国の日常にどっぷり漬かって生活している外国人としては、ここで当然、「私は今日ドイツの勉強を始めます」,「私は今日はドイツ語を勉強する時間がありません」といったことを言いたいし、言う必要が直ぐにでも出てくるのは当然です。ですから、学習者が本当に必要としている実用的なドイツ語を習ってもらうことを念頭に置いている語学学校ならば、5冊目、6冊目まで待たずに、一冊目であってもそこで、英語のTo-不定詞構文に相当する Zu-不定詞構文を導入してしまうのです。即ち
Ich fange heute an, deutsch zu lernen.
私は今日ドイツ語を勉強し始めます。
Ich habe keine Zeit, deutsch zu lernen.
私はドイツ語を勉強する時間が無い。
という具合に。
ここでついでに大事なのは、anfangenのようなドイツ語に特殊な現象である分離動詞の使い方に早く慣れる為にも授業中に
Wann fangen Sie morgens an ,zu arbeiten ?
あなたは朝は何時に仕事を始めますか。
Ich fange morgens um 9 Uhr an, zu arbeiten.
朝は9時に仕事を始めます。
といった現実に即した発話練習をどんどんやっていくのです。教師はただ単に教科書に書いてあることに従って機械的に頁を追うのでなく、学習者の自発的能力に信頼を置き,且つ好奇心を触発する。学習者も前日に経験したことも、その場で頭に浮かんだことも直ちに教師にぶつけるのです。このように自分の知りたいこと、言いたいことを即座に教師に聞ける、というシステムが求められています。さあ、これまでは語学学校でのドイツ語学習の問題点と、教室内でどのように効果的に習えるか、ということに焦点を当ててきました。ただ本項⑤の冒頭に触れました「ドイツ語の現地で実際に生活をしている、という決定的に有利な要素が全く生かされていない」とはどういうことでしょうか。勿論、これは云うまでも無く、習ったドイツ語を使ってドイツ人と話す、というチャンスのことです。この際、一番大きい障害は矢張り(私達日本人に特有な高度な羞恥心に基づく)緊張感ですね。しかしそれによる聞き取りの悪さは、もう一つの要素によって一層拍車が掛かります。例えば路上、スーパーで突然ドイツ人に話しかけられた時、パニックに陥り、聞き取り能力が一瞬の間に下がってしまうのは、相手が何のテーマについて話し掛けて来たか分からないからでもあります。逆に何のことに付き話してきたか分かっていれば、かなりのことが理解出来ます。さあ、ここにドイツでのドイツ語学習が実を結ぶか,どうかの鍵があります。全く些細なことに関しても自分の方からドイツ人に話しかけるのです。まず最初は、Hallo, Entschuldigung, wo istder Zucker ? 「済みません。砂糖はどこですか」。聞く必要のない、もう自分で知
っていることに付いてでも、いいのです。要は、相手に話しかける。勿論相手はそのことだけについて答えるのですから、よく理解出来ます。段々慣れて来たら、その内に少し高度な従属文にしてKönnen Sie mir sagen, wo der Zucker ist ? 「お砂糖がどこにあるか教えてくれませんか ?」, 或いはWissen Sie, wo der Zucker ist ?「お砂糖がどこにあるかご存知ですか」といった具合に自分の持ち札を広げて行くんです。このことは、既に昨年6月の日本クラブ会報にも「攻撃は最大の防御」な
どという奇妙なタイトルでご紹介しました。ドイツ人に突然話し掛けられてドキドキ、ビクビク、パニックに陥るのでなく、自分が決めたテーマでこちらから話し掛けるから、それに対する相手からの反応も分かり易く、従って聞き取りも良くなり、一歩一歩自信も付いてくる、というものです。勿論、上記の例のように質問である必要はありません。スーパーのレジで支払ったあと、レジの人が言う
Ein schönes Wochenende 「いい週末を」
に対して、
Danke,gleichfalls 「ありがとう、あなたもね」
の一点張りだけでなく、自分の方からも、気軽に
Einen schönen Tag noch. 「(残っている時間が)」まだ素晴らしい日でありますように」
などと発話してみるのです。